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リモージュ市案内

リモージュ市 (Ville de Limoges)

リモージュ市はパリから南西へ約400キロ、人口17万人(周辺部も入れると23万人)のリムーザン(Limousin)地方、オート・ヴィエンヌ(Haute-Vienne)県の中心都市で、ルノワールの生誕地でもあります。

リムーザン(Limousin)は、フランスの22ある地方(地域圏)のうちのひとつで、この地方を構成する三つの県のひとつがこのオート・ヴィエンヌ(Haute-Vienne)県で、郵便番号でいうとフランス全96県のうち87番目の県になります。

   

リムーザン地方観光局のサイトによると、この地方はフォアグラの産地であり、トリュフの本場でもあるようです。

そういえば、この地方の名物料理にもトリュフ入りポテトのパイというのがありました。

 

 

古くから交通の要所として栄え、三世紀には、ローマ人が第二のローマとして古代都市の建築を始めました。 リモージュ市には7つの丘がありますが、これも、ローマ市を思い起こさせるものです。 また、キリスト教の巡礼者にとって、ローマ、イスラエル、とならび、三大聖地の一つスペインのサンティアゴへ向かう巡礼路(サンティアゴ・デ・コンポステラ)のひとつがこのリモージュを通過することから、1200年に渡り、巡礼者によって賑わった町でもあります。 なお、このサンティアゴ巡礼路と途中の主な宗教施設はユネスコの世界文化遺産に登録されています。 詳しくは赤津政之さんのホームページを参考にしてください。

1771年、この地から最初の磁器製品が出荷されて以来、ヴィエンヌ川に沿って次々と磁器工場が作られ、やがて上流の森から切り出された燃料の材木を係留する港ができ、19世紀には、炉の数も増え、夜間炉の燃える火があたりを照らし、遠くからリモージュの町を眺めると町全体が赤く見えるほどだったといわれています。

何らかの形で磁器製品の製造工程に関わる人は全体で約1万人に上ると見られますが、その他の産業としては、靴の製造、ウランの採掘地としても知られています。 リモージュは磁器工場で働く人々を中心にしたフランスにおける労働者階級誕生の場所であり、後に1895年フランス労働総同盟 (CGT:Confederation Generale du Travail)がリモージュに生まれることになりました。

第二次世界大戦中リモージュは、対独レジスタンスの地下組織マキ(Maquis)の拠点として2万人のレジスタンスを組織化し、フランス解放に貢献したことでも有名な都市です。 このレジスタンスの活躍ぶりはレエヴェシェ市立七宝焼き美術館の東館でみることができます。

日本との関わり

どういうきっかけかわかりませんが、リムーザン唯一のリモージュ大学と明治学院大学との間には交換留学制度があるようで、常時日本から数人の交換留学生が滞在しているようです。

JETROの仲介でリモージュは瀬戸市と相互交流を図っています。 瀬戸市側は2005年の愛知万博への招請を、リモージュ市側は、磁器製品という共通の分野をとおしての交流を求めているようです。

交通アクセス

鉄道はTGVが通っていないため、パリのオステリッツ駅を出発する一番速いノンストップの列車でも2時間50分ほどかかります。

 

飛行場は市内中心部から約8キロのところにある Limoges-Bellegarde空港(空港コードはLIG) で、パリからはオルリー空港から朝と夜1本ずつとシャルル・ドゴール空港から午後1便の合計3本(2002年秋現在)で、約一時間のフライトです。 また、ミラノやジュネーブからの便もあって、それぞれ約1時間半で到着します。

車では、高速A20を使えばパリから約3時間といったところです。

リモージュ市のマークの由来と駅舎

       

リモージュ市の観光案内には、「当地での磁器製品の歴史は250年、七宝焼き (英語ではエナメル、フランス語ではエマイユ)の歴史は1000年」とありますが、市のマークもこれにちなんでの赤は七宝焼きと磁器を焼く炉の炎を表し、青は発展を、外側の円は市を取り囲む城壁を表しているそうです。 *市広報課より

列車の到着するリモージュ・ベネディクタン(Limoges Benedictin)駅は市内7つの丘の一つにそびえ、付随する高さ60メートルの時計台をかねた鐘楼は、市内のどこからも遠望でき、市内を歩くときの良い目印になります。

最初に作られた駅舎は1856年、初めてリモージュに鉄道が開通したときにつくられたもので、この鉄道の開通がリモージュの磁器製品のパリやヨーロッパ各地への進出に大いに役立ったのです。 現在の駅舎は1920年代の様式でリモージュ出身のフランシス・シゴー (Francis Chigot) によるアール・デコの見事なステンド・グラスが使われていることで有名です。

二つの旧市街をもつリモージュ

以下は赤津政之氏の許可を得てhttp://www.geocities.jp/makt20/junreiro/France1.htmのサイトから引用

リムーザン地方は、東半分は、中央山地の一部で、海抜500メートルから1000メートルの高地、西半分も300メートルから500メートルの丘陵性の土地で、いずれも北方はロワール水系、南方はガロンヌ水系の多くの河川によって谷が刻まれ、ダムや湖も多い。 内陸性の気候で冬はきびしく、リモージュで降霜・結氷期間は年間77日に達するが、降水量は比較的多く、牧草の生育に適しているので、牛と羊の飼育を中心とする牧畜がさかんである。 特に羊は、飼育頭数では全国第二位、羊肉の生産では第一位を誇っているが、農家の所得は低く、全国平均をわずかに超えるにすぎない。

主都リモージュは、ケルトの地に入ってきたローマ人が、交通至便なこの地に第二のローマとして古代都市を築いたのが始まりで、3世紀には、ガリアの地にキリスト教を布教するため派遣された聖マルシアルが、この地にやってきて司教となりキリスト教化に努めた。 6世紀にヴァンダル族の侵入があって、司教座が置かれていた丘(シテ地区)は防壁が築かれ要塞化された。 9世紀になって、聖堂参事会は、ベネディクト修道会の修道院建設許可を国王シャルル二世から引き出し、シテ地区の西の丘にサン・マルシアル修道院を建設した。 その地は聖マルシアルが埋葬された墓があった場所で、やがてリムーザン伯爵もここに移ってきて城を築き、城壁をめぐらした。 こうしてリモージュは、相拮抗する二つの中心地をもった特異な都市になった。

サン・レオナールからリモージュにやって来た巡礼者たちは、ヴィエンヌ川にかかる美しいアーチ型のサン・テティエンヌ橋を渡って町に入った。 この付近のヴィエンヌ川は川幅も広く、水量も多いので、この石橋が架けられるまでは、洪水によって多くの橋が流されてしまったことであろう。 橋の中程にカルメル修道会によって立てられた細い鉄の十字架と木々が生い茂る橋のたもとに立てられた案内板が、13世紀からずっとサンティアゴ巡礼路であったことを教えてくれる 。

市内の見所

<市庁舎>

1882年のフランス革命記念日にオープンしました。 前にある磁器が使われた見事な噴水台で有名です。

   

<サン・ マルシアル修道院跡>

市街地の西側にあるシャトー地区 (The Chateau)にあるサン・マルシアル修道院は、クリュニー会修道院として中世を通してリムーザン地方で大きな勢力を誇り、最盛期の12世紀にはトゥールのサン・マルタン聖堂やトゥルーズのサン・セルナン聖堂と並び称されるまでになり、中世文化の中心地として、「サン・マルシアルの第二聖書」や「リモージュ典礼書」などの多くの装飾写本の傑作を生んだ。

しかし、百年戦争やユグノー戦争で次第に衰退し、フランス革命で建物の多くが取り壊され、19世紀初めに地下祭室を残しただけで、完全に消滅してしまった。

現在、共和国広場の一角にある地下祭室には四世紀の鉛棺やメロヴィング期から中世の石棺が保管され、夏季に一般公開されている。

巡礼が盛んだった頃には、リムーザン地方には多くの宿泊所や救護院があり、聖ヤコブの会が結成されて、サンティアゴ巡礼が奨励され、すべての教区で七月二五日の聖ヤコブの日が祝われていた。 しかし、サン・マルシアル修道院の消滅でそれもなくなってしまった。 (赤津政之氏より)

<サン・テティエンヌ司教大聖堂 (The Saint-Etienne Cathedral) >

  一方のシテ地区 (The City)にあるサン・テティエンヌ司教座聖堂は、それまであったロマネスクの古い聖堂を取り壊し、その遺構を地下祭室と鐘塔の下部に取り込む形で、1273年に新たにゴシック様式の聖堂として着工され、14世紀に完成し、16世紀には内陣障壁、北側翼廊の聖ヨハネの扉口、ステンド・グラスなどが付け加えられた。 西側正面に置かれた四角形と八角形を組み合わせた四層の高い鐘塔はリムーザン地方独特のものである。聖堂の西側にはシテ地区の古い町並みが残されている。 (赤津政之氏より)
      この大聖堂の建つ場所が古代ローマ時代の建物があった場所で、いわば、リモージュ発祥の地といえます。

<市立レヴェシュ美術館 ( The Municipal Museum of l'Eveche Enamel Museum)>

  1766年から7年の歳月をかけてつくられたこの美術館は12世紀からはじまったここリモージュで制作されたエナメル工芸品のコレクションとして世界的に有名で約500点の作品が展示されています。 また、この美術館には当地で1841年に生まれた印象派の巨匠ルノワール(Pierre Auguste Renoir)自身によって寄贈された作品5点も見ることができます。 この東館 (the East Pavilion)にはリモージュのレジスタンス活動の歴史を学ぶ展示物が納められています。

アドリアン・デュブーシュ国立陶磁器博物館 (Adrien Dubouche National Porcelain Museum)>

リムーザン考古学歴史協会によって1845年に県立博物館として最初は設立されました。 ブランデーの貿易で財を成したアドリアン・デュブーシュ (1818 - 1881)は1865年、館長に就任しましたが、やがて、1875年東洋陶磁器コレクションの寄贈によって存命中にもかかわらずリモージュ市の推薦により博物館に彼の名前がつけられました。 その後、アドリアン・デュブーシュは市当局と協力して1878年に開催されたパリ万国博覧会を利用して世界中から集まる陶磁器を購入しました。 現在所蔵する約11,000点の世界中の陶磁器はこのようにして集められたものです。

彼の死後、市から国に移管されて現在のような名前になりました。館内のギフトショップでは日本語で書かれた美しいガイドブックも販売されています。


ステンド・グラス、七宝焼き、磁器製品の町リモージュ

<ステンド・グラス (Stained glass)>

カナダ、モントリオール大聖堂のステンド・グラスで有名なフランシス・シゴー (Francis Chigot) がその工房を1907年にこのリモージュに設立し、以来、1960年に亡くなるまで、数々の作品を残し、さらに後継者に優秀な人材に恵まれたこともあり、現在に至るまで市内の各所で優れた作品を見ることができます。 市内で見られる主な作品は

  • リモージュ・べネディクタン (Limoges Benedictin)駅
  • サクレ・クール (Sacre-Coeur)教会
  • ヴェルデュリエ (Verdurier)旧青果物貯蔵所

これらにはフランシス・チゴーの署名が付いています。

<七宝焼 (英語:エナメル、フランス語:エマイユ)>

このリモージュはユネスコの世界遺産にも登録された遠くスペインのサンティアゴへ向かう最長3300キロメートルにもおよぶ、西のシルクロードとも呼ばれる4本ある巡礼路のひとつが通る町でもありました。 シテ地区に建つサン・マルシアル修道院はこの巡礼者の立ち寄る場所として有名であり、巡礼記念のお土産品としてのリモージュのエマイユの工芸品はヨーロッパ中に広まったようです。

エマイユは、象眼した銅や銀の板、あるいは磁器やガラスに、コバルト、アルミ、亜鉛、銅などの酸化金属で色づけしたエナメルを流し込み、焼成して、絵や模様を描いたもので、市立美術館では、16世紀の有名なエマイユ絵師レオナール・リモザンの手になる国王やルネサンス期の人物の肖像画や宗教画など、12世紀から現在までの透き通るような潤色の作品を見ることができる。

一方、エマイユ工芸の方は、すでにメロヴィング王朝の時代に盛んになり、中世にはリモージュのエマイユとしてヨーロッパ各地に広まった。スペイン中部の有名なシロスのサント・ドミンゴ修道院に見られるエマイユもその一例で、写本装飾と同じようにサンティアゴ巡礼路に沿って伝播したことを物語っている。   (赤津政之氏より)

<磁器製品(Porcelain)>

リモージュは焼物とエマイユ(七宝の一種)工芸の町で、市内のいたるところに店やアトリエがある。 一般にリモージュ焼として親しまれているのは、カオリンを主原料とする白磁である。磁器は唐の時代に中国江西省の景徳鎮で焼かれたのが最初といわれ、原料は、長石が風化してできた粘土で、近くの高嶺(Kaoling)で取れたためカオリンと呼ばれるようになった。

この中国製の磁器は、大航海時代にヨーロッパに多く持ち込まれたが、ヨーロッパでは原料のカオリンが見つからなかったため、それに代わる泥灰土などを使って磁器(軟磁器)の製造が試みられた。 しかし、本格的な磁器(硬磁器)には至らなかった。結局、ヨーロッパで本格的な磁器がつくられるようになったのは、18世紀初頭にドイツ東部でカオリン鉱床が発見されてからで、以後、マイセンで多くの名品がつくられるようになった。 しかし、フランスでは、それよりさらに半世紀以上待たなければならなかった。

1765年、リモージュの南、約40キロにあるサン・ティリエ・ラ・ペルシュ(Saint-Yrieix-la-Perche) の外科医ダルネは、妻が洗濯に使っている粘り気のある白い土を見て興味を持ち、ボルドーの薬剤師ヴィラリスに鑑定を依頼した。 ヴィラリスは、白い土を分析した結果、ただの土でないことを知って、パリ郊外のセーブルにあった王室陶器製造所(1756年、ヴァンセンヌにあった陶器製造所がポンパドゥール夫人によってここに移され、1759年に王室製造所になった。 現在は国立陶磁器博物館)に送った。同製造所は、苦心の末、二年後の1767年、フランス最初の磁器をつくり出すことに成功した。後に世界的に高い評価を得ることになるセーブル焼の誕生である。

パリに送られるだけのカオリンを見て、時のリムーザン代官テュルゴ(Turgot)(後の国家財務総監)は非常に悔しがり、なんとかこの地でも磁器を製造しようと考え、リモージュに最初の窯をつくらせた。 こうして、1771年、リモージュ焼第一号が世に送り出されることになった。 (赤津政之氏より)