美術工芸史家 池田まゆみ 略歴 >>
美しい細工をほどこしたボックスが、18世紀のヨーロッパ貴族のあいだに広まった背景には、「嗅ぎたばこ」の流行がありました。 われわれ日本人には馴染みのうすい「嗅ぎたばこ」とはどんなものか、ちょっと横道にそれますが、今回は「嗅ぎタバコ」に注目してみましょう。 皆さんご存知かと思いますが、タバコは南米原産の植物で、コロンブスのアメリカ大陸発見とともに、新大陸からヨーロッパにもたらされたとされています。 南米帰りの水夫や商人たちの言動は、まず新大陸の黄金に野心を抱き、船を送ったスペインやポルトガルの王侯貴族の関心を惹き、なかには珍しいほかの植物と一緒にタバコを栽培してその効用を確かめようとした者がいました。 タバコははじめ、嗜好品というより薬草として紹介され、消毒薬、傷薬、下剤、止血剤、歯磨き用などとして、粉末、うがい薬、軟膏などに処方されたそうです。 16世紀の半ばころリスボンに滞在していたフランス大使ジャン・ニコの耳にもその情報が伝わり、ニコは「珍しいインディアンの薬草」を手に入れたとして、1561年本国にタバコの苗や種子を送りました。 タバコは国王アンリ3世の母親で時の権力者カトリーヌ・ド・メディシスの目にとまり頭痛薬に用いられ、フランス宮廷で評判になったのです。 始めてフランスにタバコを伝えたのは、16世紀の中ごろブラジルからタバコの種を持ち帰ったアングレームの修道士アンドレ・テヴェを通じてという説もありますが、とにかくこの時のタバコは、火をつけ煙を吸い込む「喫煙」という方法ではなく、粉末を鼻に吸い込む「スナッフィング」つまり「嗅ぎタバコ」として愛用され、後に上流階級のあいだでもてはやされ、その流行は各国の宮廷を通じてヨーロッパじゅうに広まり、宝石をちりばめた美しい金銀細工の「嗅ぎタバコ容れ」(スナッフ・ボックス)が生まれるのです。 本格的に嗅ぎバタコが広まったのは、17世紀初頭のルイ13世の時代、18世紀には流行のピークをむかえ優雅な作法が確立されます。 まずポケットや小さな袋から「嗅ぎタバコ容れ」を取り出し、優雅な身振りで相手に薦めます。差し出された方は、うやうやしく一礼して一つまみし、タバコの効用やボックスについてほめ言葉をのべ、鼻から粉を吸い込み、すすめた相手と一緒にくしゃみを交わすのです。 手から手へとまわしのみ(吸い?)されることもあり、細工の豪華さ趣向の面白さを自慢し合ったのです。 なんだかおかしな風景にも思えますが、この流行はよほど強烈なものであったらしく、聖職者のあいだにも広まり、やがて「嗅ぎタバコ」はイエズス会の宣教師を通じて中国の宮廷に伝わり、「鼻煙壺」(びえんこ=スナッフ・ボトル)を生み出し、清朝の乾隆帝(けんりゅうてい)の時代から、玉(ぎょく)やガラス、陶磁器などさまざまな素材で制作されました。 フランスでは17世紀の国王ルイ14世の時代から、外国から大使を迎えるとき、着任式で大使に「嗅ぎたばこ容れ」を下賜するしきたりがあったそうです。 金製のボックスにダイヤモンドを嵌め込んだ非常に高価な造りのもので、国王の許しを受けて宝石商に持ち込めば買い戻してもらえ、現金を受け取ることもできたそうです。 この種のボックスは「ボワット・ディプロマティック」(外交的ボックス)と呼ばれ、たいてい蓋の上や内側に細密画で国王の肖像があります。 貴重な嗜好品であったタバコとボックスの物語、リモージュ・ボックスの前身を知る面白いエピソードです。 |
18世紀の嗅ぎたばこ容れ 国王ルイ15世夫妻の肖像画が描かれている 嗅ぎタバコ容れをもつ貴婦人の肖像 アレクサンダー・ロスラン(1718~93)作 嗅ぎたばこを吸う紳士 貴婦人の肖像 Source: "The Limoges Porcelain Box from Snuff to Sentiments"by Courtesy of Rochard Inc. |