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リモージュ物語-1

美術工芸史家 池田まゆみ 略歴 >>

プロローグ

やきもののなかでもっとも高度な磁器は、中国で誕生し、13世紀末マルコポーロの時代からヨーロッパの一部で知られるようになりました。 1602年にオランダ東インド会社が設立されて英国との競争のすえ、極東貿易を独占すると、中国景徳鎮や有田の磁器が組織的に輸入されるようになり、17世紀の王侯貴族のあいだに熱狂的な磁器ブームが起こりました。 はじけるような白い肌、ガラスのように薄く繊細で、半透明の磁器は、沈んだ色合いの厚ぼったいやきものしか知らなかったヨーロッパの人々にとって、驚異の的であったようです。 磁器には薬功があるとか、万一毒が盛られていても、磁器の器ならすぐにわかるとか、さまざまな迷信までとびだすほどでした。

いつの時代も遠い国から運ばれてきたの貴重な品は、権力者の自慢の種ですが、磁器製品もしかり、銀と同じ目方で取引されるほどに珍重され、磁器をたくさん集めることが権勢の証にもなりました。 当時のヨーロッパでは面白いことに、中国や日本製の磁器を、器としてではなく、室内装飾に用いることが盛んで、宮殿に特別の部屋「磁器の間」(ポースリン・キャビネット)を設けて、壁一面を壷や皿でうめつくすことが、王侯貴族のステータスでした。 ベルリン郊外のシャルロッテン・ブルグ城には、今でも「磁器の間」が保存され、当時の熱狂ぶりを偲ぶことができます。

では、なぜそれほど磁器が珍重されたのでしょうか。答えは簡単、この繊細で完璧なやきものは製法がわからず真似することができなかったからです。 「やきもの」は、発生順に大きく分けて、土器、せっ器、陶器、磁器の四種類に分かれますが、磁器はすこし特殊で、土器、せっ器、陶器が「つちもの」といわれるのに対し、磁器は「いしもの」とよばれています。 前三者が、土つまり粘土を原料とするのに対し、磁器は「カオリン」とよばれる石英が風化した鉱物が主原料になっているからです。 「カオリン」はカオリナイト鉱物を主成分にした白っぽい石で、粉砕したものを練り上げて陶土とします。 歴史的な磁器産地である中国江西省の景徳鎮付近の山地「高嶺Kaoling」に産する良質の原料にちなんで名づけられました。

カオリン、石英、長石を主原料に1300℃から1450℃の高温で焼成し、ガラスに近い状態になったやきものが磁器です。 ヨーロッパではドイツのマイセンで初めて焼かれました。 ザクセン選定侯アウグストⅡ世の命をうけた錬金術師のヨハン=フリードリッヒ・ベトガーが、化学者チルンハウスの協力を得ておよそ3年の歳月をかけ、1709年に白磁の焼成に成功したのが、本格的な西洋磁器の始まりです。 現在のチェコと国境を接するザクセンは、銀、錫など鉱物資源に恵まれ、鉱山学が発達した土地柄であったため、首尾よくカオリンの鉱脈を掘り当てることができたのです。

金や宝石にもたとえられる高価な磁器を、極東からの輸入にたよらず、自国で独占的に製造販売することには財政上たいへん大きな利益がありました。 磁器製作は当時としては高度なハイテク産業でしたが、アウグスト王の秘密政策にもかかわらず、その製法はたちまちのうちに広がり、1718年のウィーン窯を筆頭に18世紀の中ごろにはドイツ各地に次々と磁器窯が誕生してゆきました。

17世紀後半のルイ14世の時代からヴェルサイユ宮殿を舞台に華やかな宮廷文化が栄え、洗練された文化芸術、ファッションの中心を自負していたフランスでは、その頃国王ルイ15世の時代を迎えていましたが、残念ながら、なかなかマイセンのような本格的な磁器を完成させることができませんでした。 理由はふたつあります。 ひとつは磁器研究が盛んであったフランスでは、東洋磁器と同じ品質の製法こそつきとめることはできませんでしたが、それに代わるいわゆる「軟質磁器」の製法が発達し、王立窯セーヴルを中心にロココ風の華麗な世界を展開させていたからです。 もうひとつはいうまでもありません。 国内にカオリンの鉱脈をみつけることができなかったからです。

さて、第一話はここまでにして、次回はいよいよリモージュがフランス磁器生産の中心地となるカオリン発見の経緯をお話ししましょう。

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18世紀のマイセン 1780年頃

資料提供GKジャパンエージェンシー(株)

軟質磁器 ゴンドラ型ポプリ壷 1756年

国立エルミタージュ美術館所蔵「エカテリーナⅡ世のセーブル磁器展」より