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リモージュ物語-2

美術工芸史家 池田まゆみ 略歴 >>

カオリンの発見

前回は中国で誕生した磁器が、遥々ヨーロッパに運ばれ17世紀の王侯貴族のあいだに一大ブームを巻き起こし、各国の王侯が製法解明を競った結果、ザクセン選帝侯アウグストⅡ世のもとで錬金術師のベトガーが、「カオリン」という鉱物が主成分であることを突き止め、1709年マイセンでヨーロッパ初の磁器(=硬質磁器)が焼かれた経緯をご紹介しました。

マイセンの製法は、アウグスト王の秘密政策にもかかわらず、18世紀の中頃には次々と広まってゆきました。 その頃ルイ15世の統治下、華やかなロココの宮廷文化が栄えたフランスでは、国王の愛妾で芸術文化の保護者であったポンパドール夫人の肝いりでヴァンセーヌ城からセーヴルに移された王立窯を中心に、磁器を模したいわゆる「軟質磁器」が発達し、あでやかな色合いの優雅な食器や花瓶、置物などが人気を呼んでいました。 しかし、いくらデザインが洗練され、流行の先端をいっていたからといえ、17世紀後半の太陽王ルイ14世の時代から、広大なヴェルサイユ宮殿を舞台に、世界の中心、ファッション、芸術文化の発信地を自負していたフランスが、磁器の製造に関し、ドイツの小国ザクセンに先を越されたことは、フランス王にとって決して愉快なことではありませんでした。

フランスは何とか製法の秘密を掴んだものの、肝心のカオリンを国内に見つけ出すことができなかったのです。 セーヴル王立窯では担当大臣を中心に特別プロジェクトが編成され、全国の地方長官、貴族、聖職者に知らせが出され、セーヴルを訪れる者にはカオリンの見本が手渡されました。 ある日ボルドーの大司教から、「中国と同じ白陶土」が見つかったという吉報が舞い込みました。 1768年の秋さっそく担当者が派遣され、ボルドーで薬屋を営むヴィラリスという人物の案内で、リモージュ郊外の村サン・ティリエ・ラ・ペルシュに鉱脈があることをつきとめ、採集した土を持ち帰り焼いてみると、見事な磁器ができあがりました。 その感動をセーヴルの化学者マキエは「膝まづいて拝みたくなるような純白の見事な土」と書き遺しています。 この時、抜け目のないヴィラリスは、15000リーヴルの報酬を受けとり、国王の名において3000リーヴルの値で地主から採掘権を買取り、大儲けをしました。

この発見談には、気の毒な裏話があります。 カオリンのほんとうの発見者は、実はヴィラリスではなく、彼の友人で、サン・ティリエ・ラ・ペルシュに住むダルネという退役軍医だったのです。 この辺りでは毛織物の脱脂に白粘土が使われ、ダルネの妻も村の小川で洗濯をするとき、石鹸代わりに利用していました。 商家の出身であった外科医ダルネは、ある日この粘土から石鹸の原料が採取できないかと考え、従軍時代に知り合ったボルドーの薬屋ヴィラリスに相談したのです。 ヴィラリスはひと目でそれが、国中血眼で探している磁器の原料カオリンであることに気づきました。 しかし、ヴィラリスはダルネには内緒で事を進めたのです。 正直者のダルネは最後まで友人の言葉を信じていました。 気づいたときには時すでに遅し、真の発見者ダルネには、わずか600リーヴルの年金しか認められませんでした。 ダルネは妻に先立たれ、再婚したのち悲嘆のうちに1781年に没しました。 遺された妻は財産もなく生活に困り、サン・ティリエの村からセーヴルまで、何と400キロ以上の道程を徒歩であゆみ、製陶所に救いを願い出たのです。 幸い彼女は、当時の名所長ブロンニアールの口添えで、ささやかな年金を保証されることになりました。 年金者リストの彼女の項には「偶然とはいえ、この国に大きな資産と働き口をもたらした一産業のきっかけとなった発見に対し、フランスが負う恩義のために」と記されているそうです。

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リモージュ近郊地図

カオリンが発見されたサン・ティリエ・ラ・ペルシュは リモージュ市から南に約35キロ

サン・ティリエ・ラ・ペルシュ

ジャン=バチスト・ダルネ(1722~1781)
カオリンの最初の発見者

土地の外科医、オーストリア継承戦争に従軍しヴィラリスと出会った。
(Chefs-d'oeuvre de la porcelaine de Limoges 1996 RMN掲載)

マルク=イレール・ヴィラリスの胸像(1719~1792)
ダルネの友人。高名なパリの化学者のもとに学んだ

ボルドーの薬剤師。鉱物採集を趣味とし、ボルドーの化学者サークルの一員であった。
(Chefs-d'oeuvre de la porcelaine de Limoges 1996 RMN掲載)